カンボジアの、タイ国境近くにあるチニー村を一人の日本人神父が訪れました。
ご存知の方も多いでしょうが、1970年代、カンボジアはポル・ポト政権に支配され、国民の1/4 (170万人以上) が死に追いやられました。
1979年に政権が崩壊した後も、チニー村は20年近くゲリラと化したポト派の影響下にありました。
今も電気や水道は通っておらず、雨期には耕運機しか走れなくなるといいます。
チニー村に小学校建設
2001年、字の読めない村人たちのために小学校が建てられます。最初の校舎は屋根があるだけの掘っ建て小屋でした。
現在は80名ほどの子供たちが村の外れからも通ってきています。
この学校で教諭を勤めるチュエンさんは、”身体が不自由”で他に仕事がなかったため助かっています!
しかし、月給は100ドル (約11,000円) で、数ヶ月に一度しか貰えていないそうです。
ご馳走は「野ネズミ」を焼いた肉…
貧しいチュエンさんの家族
チュエンさんには4人の子供がいて、上の3人はタイに働きに出ています。末っ子は僧侶になるため家を出ています。
チュエンさんは、小学校建設に尽力した日本人神父に「家が雨漏りするんだ。援助てくれないか?」と懇願します。
神父はそっと100ドルを手渡しますが、その表情は曇ったまま…
カンボジアと神父
1981年に内戦から逃れたカンボジア難民の少年を里子にして以来、神父は長きに渡りカンボジアに関わってきました。
しかし、神父の胸の中には一つの憂いがあります。
「支援は自立に繋がっているのだろうか?」と。
田舎でも治安は良くない
神父がチニー村を訪れる際には必ず武装警官が護衛につきます。旧ソ連製の自動小銃を携えて…
あるカンボジア人の話
プノンペン生まれのPさん(50代男性)は、少年時代に強制移住で一家離散となりました。両親の行方は今もわかっていません。
1978年、ベトナムがカンボジアに侵攻するとPさんはポト派の少年兵になり前線で闘うことになったのです。
退却する側は攻め込まれないよう地雷を埋め、追撃する側は地雷原を進んでいく。
① 両手で土を掘り、地雷が埋まっていないことを確認
② 前の人の足跡通りに自分の足を乗せて進む
※ カンボジアには今も、タイとの国境地帯を中心に400万個もの地雷が埋まっているとも言われています (正確な数を把握している機関はありません)
ブローカーの手引きにより国境を越え、タイの難民キャンプで保護されたPさんは、17歳の時、神父に里子として引き取られます。
小柄で瘦せこけ、冬なのにTシャツ姿だったPさん…
ポト派の恐怖政治を生き抜くため、余計なことを話さないよう極度の内向性を身につけてしまったPさん…
日本に来て数年後、Pさんは自殺するのではないかという状態に陥り半年間入院します。
退院後、
「実は人を殺したことがあるんです」と告白。
「敵陣へ忍び込んでベトナム兵を殺し、食糧を奪ってくるよう命じられた私はそれを遂行し、見張りの3人を背後からナイフで刺したんです」
神父さんが
「先手を打たなかったら君が殺されていただろう」と慰めると
「それは人を殺した経験のない人の言うことです。殺された方がマシでした。」
カンボジア復興の足かせ
- 地雷の脅威
- 知識層の粛清
まとめ
過去にはいろいろありました。歴史は残酷なものです。今、私たちにできることは「教育」ではないでしょうか。
教育こそが貧困脱却の近道だと思うのです。
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Pさんはその後、行方知れずだった妹と再会を果たしました。
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学校建設を進める神父の活動を聞きつけ、援助を求めに来る人もいます。
神父のもとに、「助けてほしい」と大人が代筆した手紙を携えた少女が来たこともありました。
親がこの少女を売春組織に売るつもりだったようです。神父は親に支援を約束し、何とか思いとどまらせたといいます。
…
1980年以降、日本の何十もの民間団体がカンボジアの自立を支援してきています。
一方で、手付かずの事業や放置されたままの井戸など課題も山のように残っています。
日本の支援はカンボジアの自立に本当に繋がっているのでしょうか?
その答えをあるカンボジア人女性はこう語っています。
「日本の援助で無駄なものは何もありません。」
確かに、日本の支援による地雷撤去活動では死傷者が大幅に減ってきています。教育も少しずつではありますが、浸透してきています。
ただ、未だカンボジアは貧困を脱していませんし、自らの人生を切り開くチャンスを得られない人が多いのです。
学校がなければ子供たちは字も読めず、計算も出来ない。
学校がなかったら…