セリニャン散策!初めて日本を訪れたフランス人の故郷



皆さんは日本に初めてやって来たフランス人のことをご存知だろうか?

ギョーム・クルテ
 

彼は、気軽な観光目的でやって来たわけではありません。命がけの使命感を胸に抱いていたのです。

 

 

どうしても日本に行きたかったギョーム・クルテ

世界文化遺産に登録されているフランス南部の城塞都市カルカソンヌから車で40分。辺り一面ブドウ畑が広がる美しい景色を走り抜けると、セリニャンという小さな町にたどり着く。

村の中心には教会があり、その前にはある聖人の銅像が立っている。実は、長崎市の庭園にも同じ聖人の銅像が立っている。

彼の名はギョーム・クルテ。

 

江戸時代初期の1637年に長崎の西坂で命を落とした「長崎16聖人」の一人だ。1590年、セリニャンで生まれた彼は、日本で殉教した修道士の話を聞き、聖職者となる決意をする。

ドミニコ会の僧となり、フランス国内で神学の教授や修道院長を経て、スペイン・マドリードに5年、フィリピン・マニラに1年滞在し、いよいよ、待ちに待った日本へ行くことに。

 

 

人々を真の道へ導くために

1636年夏、マニラから琉球 (沖縄) にたどり着いた彼はすぐに捕らえられ、鹿児島の牢獄で1年間もの長きにわたり拷問・虐待を受ける。やがて長崎に移送され、1937年9月29日に処刑。歴史上、日本を訪れた最初のフランス人である。

「あなたがたはなぜ、恐ろしい拷問の後で殺されることがわかっているのに、この日本にやって来たのですか?」

死刑執行人の問い掛けに、「私たちの目的はキリスト教を伝え、人々に救いの道を教えることです。死ぬために来たのではなく、人々を真の道へ導くために来たのです。」と答えた。

 

棄教を勧める拷問にも揺るがなかったので、市中引き回しの上、西坂で穴吊りの刑に処されるも3日間耐え抜き…

ついに、穴から引きずり出されたクルテ神父は斬首によって殉教したのです。

16殉教者 (カトリック松山教会)
16殉教者 (カトリック松山教会)

 

 

長崎を想うクルテゆかりの人々

セリニャンの教会前の銅像裏には「1637年9月29日NAGASAKIで殉教」と記してある。村の中にある生家の壁にも「NAGASAKI」の文字が。

 

私はこの村を訪れた際、ある村人に「NAGASAKIだけでわかるのですか?なぜJAPONと表記しないのですか?」と聞いてみた。

すると彼はふっと笑い「JAPONは必要ない。我々にとってNAGASAKIは特別な場所だから。」と答えたのです。

 

彼らは当然のように「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が世界文化遺産登録の候補になっていることを知っている。

遠いフランスの地で、彼らはいつもクルテを思い、その終焉の地である長崎のことを思っているのだ。

セリニャンはファーブルが昆虫を研究するために選んだ町でもある
セリニャンはファーブルが昆虫を研究するために選んだ町でもある
セリニャンの風景
セリニャンの風景

 

 

終わりに

2016年夏、教会群の再推薦が決定し、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に名称が変更された。くしくも登録予定の2018年は日仏友好160周年にあたる。

こういった歴史に思いを馳せながら、世界の地域や人々との交流を深めていきたい。そうすることで、400年前のクルテの祈りに希望の光がともることにもなろう。