アジアの障害者たちを取り巻く驚きの「偏見と差別」



障害者に偏見を持つのはなぜだろう?

一部の健常者たちは障害者たちを「欠陥」として見る。この否定的な態度はどこから生まれてくるのだろう?

人類は、支配する者と支配される者に分けることができる。

 

そこに、メディアが先頭に立ってプロパガンダを作り上げてきた歴史もある。その最たるものが戦時下のナチスドイツであろう。「偏見」は見事に作り上げられていった。

 

「偏見と差別」は先進国と途上国の別なく現在においても無くなることはない。途上国では、言葉や態度で伝えられる過った価値観から「偏見」が生まれることが多い。

 

この価値観の根底をなすのは、情報や理解の欠如からくる障害に対する過った考え方である。

そこには神を聖なるものとし、その姿を象っている存在である5体満足な人間は善であり、不完全な存在である障害者を不浄なものとして排除する宗教の大きな影響がある。

 

 

 

障害者を憐れみ助ける宗教 ☆

例えば、イスラム教の教義では「弱い者に対して無条件に手を差し伸べる」ことが書かれている。障害者は、高齢者や病人、貧しい人と同じくその権利が認められている。

タイでは、社会福祉活動は仏教によって始まり、仏教の修行と実践を通じて慈善活動が行われてきた。人々は喜捨に励むことが奨励され、それは徳を積むことと理解された。そのため、障害者はかわいそうな人として援助を受けたり金銭の施しを受けてきた。

 

同様に仏教が地域の中での相互扶助を支えている例はカンボジアでも見られる。生活苦に陥った人々を、親戚や地域社会が中心となって面倒を見る。

ヒンズー教も同様、弱者に施すことによって自分の魂が救われると信じているので、障害者は相互扶助によって救われている面がある。

 

スリランカブータンなどではキリスト教の宣教師によって盲学校が設立された。韓国の障害者教育の歴史も宣教師の手によって始まっている。

タイにおける視覚障害者教育は、日本で働いていたアメリカ人宣教師がタイに要請されて1939年、最初の盲学校を作った。

 

しかし…

 

 

自立を拒む慈善活動

慈善は時として障害者の自立の弊害となっている。「障害者=物乞い」と考える過った見方も助長され得る。

例えばタイでは、バンコクに住む約2,000人の盲人は、政府が発行する宝くじを販売して生計を立てている。

 

その他の身体障害者たちも同様だ。しかしこれは裏を返せば、障害者たちが良い仕事に就けないから宝くじ販売を選択せざるをえないことを意味する。

確かに、「障害者から買う行為は良い行いだ」とする考えから、彼らの給料は公務員並みの高い水準だ。これを善しとするかどうかは個人の考え方次第であろう。

 

同様にタイでは、労せずに稼ぐことができる職業として物乞いを選択する障害者もいる。以前よりはずいぶん減ってきているものの、彼らはナイトバザールなどの繁華街に座り込み、施しを受けている。

これは何もタイに限ったことではなく、アジア諸国の多くの場所で見られる風景だ。中には物乞い収入で家族を養っている一家の大黒柱も存在する。彼らは、働くより容易に収入が得られるため、現状を変える気がないのだ。

 

 

 

障害者に対する宗教の考え方

ヒンズー教や仏教の考えでは、「障害者は前世に悪い行いをしたので神から与えられた罰なんだ」としている。ネパールでもこの考えが広く浸透している。

これを信じる当の障害者たちは「前世が良くなかったのだから仕方ない」と考え、自立への意欲を失っている。また、もらうことによって相手の魂が救われるので「もらってあげる」という感覚まで生まれてしまっている。

 

インドのカースト制度は障害者を冷遇している。「片足がない」「目が見えない」となると、「それは秩序に背いている」として下位の身分に落とされてしまう。

 

 

 

障害者への周囲の態度

周囲の健常者たちは、障害者を哀れんで甘やかすか、全く無視して差別するかのどちらかである。

「障害者はかわいそうだから早く死んで楽になった方がいい」とする意見もなくはない。

 

 

 

障害者への家族の態度

例えばフィリピン(カトリック国)では、障害を持った我が子がイジメに遭わないよう外に出さなかったり、「与えられるものは何でもしてあげよう」と障害児の要求に最大限に応えようとする。

一部の農村部では「障害は悪霊の仕業。伝染する。」と信じられ、家族は障害者を家の中に隠してしまう。

スリランカでは、母親の業が子供の障害に出てくるとする考えが強く、そのため家族は障害者がいることを恥じ、隠そうとする。

 

 

 

障害者施設では

タイマレーシアにある障害者施設の多くは重度障害者の収容を目的として作られており、介助が手薄になっているため、褥そうや尿侶感染で死亡する例も少なくない。日本では考えられないことである。

仏教国のスリランカやヒンズー教徒の多いネパールなどでも、障害者をケアする立場の者が「障害者は教育がない。不浄だ。」などとして触ろうともしない。

 

 

 

障害者を利用するビジネス

インドサウジアラビアなどでは、障害児を使って物乞いをさせお金を稼ぎだすギャング団が存在する。これがエスカレートして、我が子(赤ちゃん)の腕を切り落とし乞食をさせる母親までいる始末だ。

お金を稼ぎ出すために作り出された障害者の存在も、世界には少なからずいる。現在、経済発展を遂げたタイ・バンコクの物乞いの多くは、隣国ミャンマーからお金稼ぎにやってきた障害者であるとも言われている。

 

 

 

障害者たちが望んでいるもの

障害者たちが真に望んでいるものは、自分たちが社会に平等に参加できること。けっして施しや憐れみなどではない。

 

「私たちは神の罰でもなければ有害でもない。当然、伝染などしない。みんなと同じ人間なんだ。」

 

「誤解や偏見はやめて」

そのことを、ちゃんと理解してもらいたい。