在位70年を迎えたタイのプミポン・アドゥンヤデート国王が亡くなりました (2016年10月13日)。88歳。
存命する世界の王族・皇族の中で最も長期間君主の座にあり、立憲君主制のタイで、政治対立の調停役として絶大な影響力を有していたのです。
タイ首相府は、「1年間を服喪期間とする」と発表。
プミポン国王は、本当にタイの人々から愛されていました。その絶対的な存在がいなくなり、これからのタイはどうなっていくのでしょうか?
タイでは、2014年5月のクーデターを招いたタクシン元首相派と反タクシン派の対立が今も根深いまま…
国王の死去が、今後新たな政情不安をもたらす恐れもあります。
プミポン国王は、1782年に成立したチャクリ王朝の9代目君主で、ラマ9世とも呼ばれます。兄のラマ8世が1946年に急死した直後、18歳で王位を継承し、70年に渡って君臨。
「王室プロジェクト」と呼ばれる社会活動で、地方の住民の生活向上に尽力し、国民から敬愛されていました。
また、1973年に起こった「血の日曜日」(軍・警察が学生運動を弾圧) 事件や、1992年の「5月騒乱」(民主化要求グループと軍・警察の衝突) などを調停し、圧倒的な存在感を示していたのです。
体調を崩した2009年以降、公の場に出る機会は減り、タクシン氏の妹・インラック首相が失職に追い込まれた後に起きた2014年5月のクーデターでは沈黙を保っていました。
以降、大半を首都バンコクの病院で過ごしており、肺炎や高熱など、様々な症状に悩まされていました。2016年6月には心臓の手術を受け、直後に在位70年を迎えたのですが、国民の前に姿を見せることはなかったのです。
タイは1932年の立憲革命で、専制君主制から立憲君主制へと移行し王室の権威は失墜。
その後、1946年に王位を継いだプミポン国王は、海外生活が長かったこともあり、即位当初から国民の全幅の信頼を得ていたわけではないのです。
第二次世界大戦後は独裁政権が「体制正当化の手段」として王室の権威を利用していたような状況下にあったのです。
そんな苦境を乗り越え、
プミポン国王は国民に寄り添う姿勢を貫き、自らの力で絶大な権威を築き上げていったのです。
聡明さ…
国民への慈愛…
国王は頻繁に地方を視察し、国民の辛苦を目の当たりにして「王室プロジェクト」を推進させ、信頼を勝ち取っていったのです。
国王の存在感は、政治的危機の際には必ず民主主義と国民の側に立って下した数々の裁定に現れています。
1992年の5月騒乱の際には、対立するスチンダ首相と野党指導者らが国王の前でひざまずく姿がテレビで放映され、タイ王室の権威を揺るぎないものにしました。
一方で、国王の権威を背景とした「タイ式民主主義」は、2001年のタクシン政権誕生で転換します。
大衆迎合的な政策とトップダウン方式で経済発展を追求したタクシン氏は、圧倒的な人気を集めて国王の権威を脅かします。

その後、
バラマキ政策で恩恵を受けていた貧困層中心のタクシン派と、既得権益を守ろうとする軍や財閥などの反タクシン派で国は二分。
言動の一つひとつを国民が注視し、国の羅針盤のような存在だった国王は、タクシン派・反タクシン派の根深い対立を解消できぬまま、この世を去っていったのです。
対立の根は今も消えず、波乱要素は残ったまま。。。
きっと、
国王が望んだのは、国民が真に自立し、成熟した新たな形の民主主義を見つけること。
今の軍政では絶対にないはず!
タイはまだ、その過程にあります。
後継者で新国王となるワチラロンコン皇太子 (64) は、女癖の悪さや素行の悪さなど、様々な問題を抱えているようで、父プミポン国王のように「国民に愛される国王」になれるとは到底思えません。

ワチラロンコンに対するタイ国内での評価は、「不敬罪」に問われるので公の場で議論されることはありませんが、一般的にはかなり悪いようです。
3度の離婚、愛人問題、そして、若い頃からの数々の王室の人間にそぐわない行動は、広く国民に知れ渡っているのです。
2009年に開かれた王室のパーティでは、当時3人目の妻だったシーラット妃を、大勢の前で裸にさせている映像が出回りました。

そして、2014年にシーラットと離婚後、なぜか彼女の両親や兄弟たちが汚職や不敬罪で次々と逮捕されているのです。
プミポン国王、なぜあなたは子育てに失敗してしまったのですか?
これからのタイが不安でなりません。