フジ子・ヘミングさんの演奏でおなじみ「ラ・カンパネッラ」を作った天才ピアニストのフランツ・リストは超絶的な技巧を持ち「ピアノの魔術師」と呼ばれていました。
どんな曲でも初見で弾きこなし、「指が6本あるのでは?」といった噂まで。そんな彼を超えるピアニストはもう現れないだろう…とまで言われています。
そんな天才音楽家リストは、ショパンをはじめメンデルスゾーンやシューマンなど、同時代の著名な音楽家たちをも魅了していました。
海外で活躍するも忘れなかった祖国への愛
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ハンガリーで生まれ、ウィーンで学び、パリに移り住んだ後は各地で演奏旅行を行なった「ピアニスト」リストはその後、ドイツに移り住んでワイマールをはじめとする各地で「指揮者・作曲家」として名を馳せていきます。
ドイツ、オーストリア、フランス、スイス、イタリアなど、生涯のほとんどを外国で過ごしましたが、ハンガリー人であるリスト (1811〜1886) は晩年、ブダペストに滞在することが多く、1875年には現在のリスト音楽大学の前身である王立音楽院を設立。祖国にて音楽家の育成に専念しました。
フランツ・リストとは
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ハンガリーを祖国として愛していたものの生涯ハンガリー語を習得することはなく、ドイツ語を話し続けていたリスト。その音楽性もまた、ベースはドイツにありました。
1823年、12歳のリストはウィーンでコンサートを開き、当時既におじいちゃんだったベートーヴェンに会い、褒められています。その後父親が亡くなったため、僅か15歳にしてピアノ教師として家計を支えることとなります。
20歳の時にパガニーニの演奏を聴いて感銘を受けたリストは超絶技巧を目指すことに。そんな中、同時代に生きたショパンやシューマンらとは親交が深く、双方向的に刺激し合ったようです。
1838年、ドナウ川が大氾濫を起こした際にはチャリティー・コンサートを行い、ブダペストに多額の災害救助金を寄付しています。
モテモテだったリスト
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ピアニストとしてアイドル的存在であり、女性ファンの失神者が続出したとの逸話が残っています。
また、多くの女性と恋愛関係になったことでも有名です。マリー・ダグー伯爵夫人(後にダニエル・ステルンのペンネームで作家として活動)とも恋に落ち、1835年にスイスへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送っています。
2人の間には3人の子供が産まれ、その内の1人が後に指揮者ハンス・フォン・ビューローの、さらにリヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマです。
1844年にマリーと別れたリストは、1847年に演奏旅行の途次であったキエフで他の女性と恋に落ち同棲。しかしながら、カトリックで離婚が禁止されている上複雑な財産相続の問題も絡んで、結婚は認められませんでした。
晩年のリスト
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リストは晩年、虚血性心疾患・慢性気管支炎・うつ病・白内障に苦しめられます。晩年の簡潔な作品には、病気による苦悩の表れとも言うべきものが数多く存在しています。
1886年、バイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇を見た後に心筋梗塞で亡くなったリストは、娘コジマの希望によりバイロイトの墓地に埋葬されました。ただし、第二次世界大戦の空襲により崩壊。1978年になんとか再建されました。
弦が切れるほどの激しい演奏
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リストは即興に重点を置いていたため、楽譜はおろか鍵盤すら見ずに、絶えず生み出されるピアノの音に耳を傾けて演奏をしていたと言われています。
リストの弟子たちはみな演奏技術が高いのですが、その弟子たちの誰もがリストの演奏を賞賛しています。つまり、演奏家として絶頂期だった頃のリストは、今日でも超難曲と言われる曲を (即興を加えさらに難しくして) 見事に弾きこなしていたのです。
弦が切れるほどに激しい演奏で。。。超絶に・・・
★ 晩年リストが住んでいた家
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ブダペストには、晩年リストが住んでいた家が3軒あります。最初の家は聖イシュトヴァーン大聖堂近くのナードル・ウッツァ通りにあり、2番目の家はドナウ川に近いイラーニィ通りに。
そして、3番目の館が現在のリスト記念博物館です。彼はここでピアノを教えていました。リストが使っていた2階の3部屋を見ることができ、幼少の頃に使っていた小型ピアノ、作曲用の鍵盤付き机、遺愛品の数々など、どれも興味深いものばかり。
★ ショプロンの旧市街
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オーストリアとの国境の町ショプロンはハンガリーきっての大貴族エステルハーズィ家ゆかりの地であると同時に、作曲家フランツ・リストゆかりの地でもあります。
ショプロンの一部だったドボルヤーン (Doborjan) という村で生まれ育ったリストは9歳のとき初めて演奏会を開きます。この演奏会が彼のデビューとなり、「神童」ともてはやされることとなるのです (その建物は旧市街の南西、ペテフィ通りとリスト・フェレンツ通りの角に今も残っています)。
★ ワイマール
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宮廷楽士長となり、リストが作曲家として大成した町ワイマールには、リストの家(1869年から亡くなる1886年まで住んだ家。2階のサロンにはグランドピアノが2台並べて置かれ、リストは友人を招き週末コンサートを行なっていました)、国民劇場(リストやシューマン、ワーグナー等が活躍した劇場。ワイマール憲法が採択された場所)、ゲーテの家、シラーの家、バウハウス博物館などがあります。
また、リストの意志を継いだ弟子たちによって開校された音楽学校「ワイマール・フランツリスト音楽大学」も。
ちなみに、リスト音楽大学の手前、中央緑地帯の中には風変わりな銅像があります。髪を振り乱し両手を広げ一心不乱の「リスト像」です。ピアノが無いのでまるで透明ピアノを弾いているかのよう。
銅像の周りにはベンチが並んでいますので、ここに座ってじっくりとリストを眺めてみましょう。
★ ドレスデン
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リストが度々訪れ演奏会を行なった街ドレスデンは、チェコのプラハからそう遠くない場所に位置するドイツの素敵な街です。
ここには、ツヴィンガー宮殿、フラウエン教会、カトリック旧宮廷教会、レジデンツ城、マイセン磁器タイルを使った「君主の行列」、ブリュールのテラス、ゼンパーオペラ、ホテル・デ・ザクセ (リストが好んで滞在し演奏会を開いたホテル) などがあります。
★ リスト・フェレンツ広場
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リスト・フェレンツ広場 (ブダペスト) には中央緑地帯の両側にレストランがずらりと並んでいます。といっても、アンドラーシ通りにあるような高級レストランではなく庶民的なお店です。リスト音楽大学の学生など、多くの若者たちが利用しています。
ここで、グヤーシュ(牛肉と野菜のスープ) やフォアグラのソテー、ロールキャベツといったハンガリーの定番料理を堪能しましょう。店内にはピアノを弾くリストの絵があったりして、、、ファンにとっては堪りません!
★ ヴァルトブルク城
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★ リスト最期の地バイロイト
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ここには、リスト博物館(リストが息を引き取った最期の家)、ワーグナー博物館(リストの娘コジマとワーグナーが住んだ家。リストの遺体が一度置かれた音楽の間があります)、リヒァルト・ワーグナー・フェストシュピールハウス(リストも聴衆として参加したバイロイト音楽祭の会場)などがあります。
ちなみにリストやワーグナーのお墓はバイロイトのラマダホテル近くの市立霊園 (Stadtfriedhof) にあります。とても綺麗に保たれているので、定期的に掃除をする人がいるのでしょう。
★ その他:リストゆかりの地
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貴族たちの支援を受けて音楽を学ぶことができたリスト!
リストの父はハンガリーやオーストリアの貴族たちから息子が音楽を学ぶために必要な奨学金援助を取り付けます。その最初のパトロンがエステルハーズィ侯爵でした。その結果、一家でウィーンへと引っ越します。
エステルハーズィ家は代々音楽好きで知られています。ショプロンの東、フェルテーにはエステルハーズィ侯爵の広大な城「夏の館」が、北のアイゼンシュタット (オーストリア) には侯爵の「冬の館」があります。
どちらもショプロンからバスや電車で30~40分ほど。リストゆかりの町はブダペストやドイツのバイロイト、ヴァイマールなどヨーロッパ各地にありますが、エステルハーズィ宮殿などはあまり知られていません。興味のある方はぜひ訪れてみましょう。