なぜイランとサウジアラビアは敵対しているの?



サウジアラビアの石油施設がイエメン内戦で対立する武装組織の攻撃を受けました (2019年)。サウジを支援するアメリカと武装組織を支援するイランという敵対構図もあります。

ちなみにイエメンでは、米国の同盟国サウジアラビアが支援するハディ暫定大統領側と、イランが支えるイスラム教シーア派武装組織「フーシ」が戦っています。アメリカとイランの「代理戦争」というわけではないのですが、サウジとイランも仲が悪いのです。

 

サウジ VS イラン

近年、中東情勢への懸念が高まってきています。その最大の原因は、覇権争いを繰り広げているサウジアラビア (アラブ) とイラン (ペルシア) の対立にあります。イスラム教・スンニ派 (サウジ) とシーア派 (イラン) の勢力争いともいえるでしょう。シーア派打倒のために、サウジアラビアがスンニ派過激組織を支援しているとの見方もあります。

一般的には「イランの核開発」がリスクの元凶ともみなされていますが、問題はそれほど単純ではありません。過去の歴史において、文化・宗教などを無視して国境が設けられた結果、1世紀以上にわたって「中東の混乱」が続いているわけです。

スンニ派 (サウジ)  VS  シーア派 (イラン)

 

 

トルコ VS サウジ VS イランの三国志問題も

100年前の中東では、ペルシア湾を挟んで2つの帝国が覇権を争っていました。トルコ人のオスマン帝国とイラン人のペルシア帝国です。

 

 

イスラム教の開祖、預言者ムハンマドを生んだアラブ人は落ちぶれ、オスマン帝国とペルシア帝国とに分割支配されていたのです。ムハンマドの一族であるアリー家だけを指導者とみなすシーア派はイランで広まり、一方のアラブ世界では血統よりも能力を重視するスンニ派が多数を占めていったのです。

しかし、「能力次第」ということが下剋上を引き起こすことにもなりました。トルコ人が騎馬軍団を率いてイスラム世界を席巻し、トルコ人の君主に過ぎないオスマン家が「カリフ」(指導者) を僭称するようになっていったのです。いずれにせよ、アラブ人にとって容認しがたいことが起こってしまったわけです。

オスマン帝国 (1299〜1922年)

 

 

アラブ復権を果たしたサウジアラビア建国

18世紀、アラブ「サウード家」のもとを一人のイスラム法学者が訪れ、アラブの衰退と異民族の支配を嘆き、その原因をアラブ人による『コーラン』の軽視にあると説きました。これに心動かされたサウードは聖戦 (ジハード) の兵を挙げ、アラビア半島の統一を図ったのです。従わぬものは容赦なく斬首し、彼らが「逸脱」とみなすあらゆる習慣や文化財は破壊されました。その過激さは、今日のIS (イスラム国) やアルカイダが行っている破壊行為となんら変わりありません (いずれもワッハーブ派)。

このワッハーブ派を恐れたオスマン帝国は討伐軍を派遣しますが、縦横無尽に砂漠を移動するワッハーブ派を根絶するには至りませんでした。彼らは2度滅ぼされるも3度起き上がり、ついに20世紀初頭、第一次世界大戦に敗れたオスマン帝国が崩壊したのに乗じて、サウード家のアブドゥル・アジーズがサウジアラビア王国を建国したのです (統一は1932年)。その国旗には、イスラムを象徴する緑地に白で「剣とコーラン」が描かれています。

 

 

 

石油を巡る英米の介入が招いたスンニ派内の対立

石油利権の確保を狙うイギリスはサウジアラビアによるアラビア半島統一を阻止するために、「クウェート」「バーレーン」「カタール」「イエメン」などに軍事援助して彼らの独立を認めサウジ包囲網を固めていきます。

 

 

また、オスマン帝国時代に聖地メッカの知事を務めていたアラブの名門ハーシム家の王子を擁立してイラクとヨルダンを建国させ、地中海からペルシア湾へ至るルートを確保します。このようなことをしたイギリスですから、その後日本が満州国を建国した際には日本に制裁を勧告できなかったのです。

ともあれ、このような状況の中、孤立するサウジに救いの手を差し伸べたのがアメリカだったのです。ルーズヴェルト大統領はアブドゥル・アジーズ国王と会見し、ロックフェラー系の石油資本に石油掘削権を認める代償として軍事援助を与えたのです。

 

サウジ王家 (サウード家) から見れば、アラビア半島周辺のミニ国家は「英国の傀儡」であり、いつでも「討伐」の対象になり得ます。よってこれらの国々は、もう一つの大国イランに接近することでサウジを牽制しているという構図になっているのです。

ちなみにペルシア湾岸に近いサウジ領内にはシーア派の住民が多く、サウード王家の支配が揺らげばこれらの地域はイランに併合されることでしょう。厄介なことに、このシーア派地域の下には油田が広がっており、この地域を手放すことはサウジ王家にとって「死」を意味することになるのです。よって、イランとの対決は避けられないというわけです。

 

 

ムハンマド王子の強権とカショギ氏殺害

アメリカは、(サウジだけでなく) イランの石油利権をも握っていました。しかしながらイラン革命 (1979年) で親米王政を倒したシーア派政権 (ホメイニ政権) がアメリカの石油利権を国有化してしまったため、アメリカは革命イランを敵視しサウジへの援助を強化したのです。追い詰められたイランはついに核開発に着手し、北朝鮮ともつながるようになっていったというわけです。

その後、石油資本との繋がりが弱かったオバマ政権は従来のイラン敵視政策を大転換し、経済制裁を緩和。これはサウジから見れば「米国の裏切り」です。こうした状況の中、サウジアラビアの事実上の実権を握るムハンマド王子は米国石油資本に頼らない国づくりを目指して強力なリーダーシップを取り始めることとなります。

 

既得権益の上にあぐらをかく他の王族たちを容赦なく取り締まり、混乱につけ込もうとするイランを牽制し、周辺諸国への圧力も強めていくこととなるのです。その結果、「サウジ王家のスキャンダルを報道するニュース局アルジャジーラを経営するカタール王家に対する厳しい経済制裁」「イエメンのシーア派武装勢力への容赦ない空爆」「カショギ氏 (トルコ系サウジ人) 殺害」が行われました。

サウジ国内では北朝鮮並みの報道管制が敷かれ、弾圧の実態を報道する記者は命を狙われることとなったのです。トランプ政権がオバマの中東政策を批判し、再びイランを締め上げてサウジとの同盟関係を再構築しようとしている矢先にこの事件が起こったわけです。

 

 

サウジアラビアの権威失墜

トランプ大統領にとってこの事件は迷惑以外の何物でもありませんでした。犯行の舞台となったトルコはメンツを潰された形になったものの、冷え込んでいた対米関係の改善に利用するため、真相究明に努力する善意の第三者としてふるまうことにしたのです。

カショギ氏殺害にムハンマド王子の指示があったのか、はたまた対抗勢力が仕組んだことなのか。領事館内での殺人というあまりにお粗末な計画だけに、後者の可能性が高いとも言われています。

 

 

イランとサウジの国交断絶

2016年、中東の大国「イラン」と「サウジアラビア」が国交を断絶するとの報道が世界を駆け巡りました。これはサウジで拘束され死刑判決を受けていたシーア派の指導者ニムル師の処刑が行なわれたことに端を発しています。

この件に関して、「これからシーア派対スンニ派の宗派対立が激化するかも」と考えられていましたが、結局のところ「宗派対立」よりも「地政学的な両国の覇権争い」の方が強いようです。

これからの中東情勢から目が離せません!