不仲な中東の大国「イラン」と「サウジ」の複雑な対立事情



「中東」が「平和」であるかどうかは不仲なイランとサウジアラビア次第と言っても過言ではないでしょう。この両者の対立がイスラム教・シーア派 (イラン) とスンニ派 (サウジ) の勢力争いにあると考えると、「なるほど、要は宗教対立なのね」と思うかもしれませんが、ことはそう単純ではありません。

ところで、「イラン」「サウジアラビア」と聞いて真っ先に思い浮かべることは何ですか?イランであれば「核開発」「ホメイニのイラン革命」「ドラッグの密売人」、サウジであれば「産油国」「イスラム教発祥の地」といったところでしょうか。

 

20世紀のイラン

「皇帝の改革」があまりにも急激だったため、貧富の差が広がって石油価格が暴落するといったことがありました。その結果、1964年には皇帝批判をした人々が国外に追放されパリに亡命。そして有力な宗教指導者ホメイニ氏のもとに結集したのです。これに対して政府はホメイニ氏を非難・中傷する記事を掲載するのですが、民衆は反発してデモを開始。暴動にまで拡大しました。

こうして反政府勢力の数は膨れ上がり、皇帝はエジプトに亡命するのです (1979年)。同年、ホメイニ氏は帰国を果たし最高指導者に就任。国民投票を経て、イランはイスラム共和国の樹立を宣言するに至ったのです。この革命は世界中の人々を驚かせました。なぜなら、これが軍指導の革命ではなく、しかもソ連 (現在のロシア) もアメリカも関わっていなかったからです。完全に「民衆」による「宗教」的な革命だったのです。

 

 

日本に押し寄せて来たイラン人

その翌年 (1980年)、かねてから石油の利権と領土問題で対立していた隣国イラクがイラン社会の混乱に乗じて攻め込んできます。これがイラン・イラク戦争の始まりです。サダム・フセインがイランに侵攻した理由は、「イラン革命が輸出されるのを嫌ったため」とも「アラブの盟主になりたかったため」とも言われています。いずれにせよ、イラクは圧倒的な海軍力を有していたイランを攻撃するためには、イラン社会の混乱に乗じるほかなかったのです。

ちなみにイラクはソ連ともアメリカとも良好な関係にあったため、両者から武器や支援を得ることができました。加えて、周辺の湾岸諸国も革命の輸出を恐れてイラク支援にまわりました。そのため、戦局は当初イラクが圧倒的に有利でした。ところがイランは思いのほか粘り強く・・・そうこうしているうちに「敵 (アラブ) の敵は味方」なのかどうかわからなくなり、はたまたイスラエルがイランを支援したりして、戦争はこう着状態となりました。

 

その後、互いにミサイルを撃ち合う状態が長く続き、最終的には国連が調停に入って停戦となったのです (終結までに8年を要した)。イラクはこの戦争でアメリカから膨大な軍事援助を獲得し軍事大国となりました。そして戦後、(イラクに債務の返済を迫っていた) クウェートに攻め込み、新たな戦争を始めることとなります (第一次湾岸戦争)。一方、イランはイラクからのミサイル攻撃の悪夢を払拭すべく、「ミサイル & 核開発」へと進んでいったと言われています。

イランでは戦争終結後、戦線から帰還した若者たちが十分な職を得られなかったため、日本への出稼ぎが流行しました。なぜなら、日本はイラン人が唯一ビザなしで行けた先進国だったからです。当時イランは「日本の最大の石油輸入国」で、両国の関係が良好でした。革命後にアメリカとイランが国交を断絶しても、日本は独自にイランとの良好な関係を保っていたのです。この結果、1980年代後半から上野公園にイラン人が多数たむろするという現象が生まれたのです (出稼ぎ者の急増により、1992年に査証免除協定は中止)。

 

 

イラン、西欧諸国との関係良好に

イランとアメリカの関係は革命後ずっと悪化したままでした。2002年にはアメリカが、「イランは核兵器の開発を行っている」と主張 (イランは核兵器不拡散条約を締結しているため、核兵器の開発をすることはできない)。この主張は国連の安保理で認められ、イランに対する経済制裁が行われることとなるのです。

経済制裁はイラン経済に打撃を与えていましたが、イランの態度も頑なでした。2013年に穏健派と呼ばれるローハニが大統領に就任し、ようやく査察受け入れが実現。こうしてイランは2002年から続く核開発疑惑問題に終止符を打ち、欧米諸国との関係改善にたどり着いたのです (1979年の革命以来、国際舞台へ返り咲き)。

 

 

一方のサウジはというと…

長いトンネルを抜けてようやく国際舞台に復帰したイランとは対照的に、サウジアラビアは (特にアメリカとの関係において) 陰りが。。。

1932年の建国当初、まだ石油が発見されていなかったサウジアラビアの主な収入源は「メッカ巡礼者からの収入」だけで財政難に陥っていました。周辺のイラン、イラク、クウェートなどではすでに石油が発見され、その利権を巡って猛烈な植民地獲得戦争が繰り広げられていたにも関わらずです。

 

この石油を巡る争いでイギリスなどに出遅れていたのがアメリカです。アメリカは「レッドライン協定」により、単独で旧オスマン帝国内で石油を開発することができなかったのです。そこで目をつけたのがサウジでした。イギリスは「サウジでは石油は発見されない」と思いこんでいたため、アメリカの動きをけん制しませんでした。

アメリカの石油会社は1933年、石油が発見されていないにも関わらず、財政難で苦しむサウジ王から石油の採掘権を買ったのです。それでもしばらくは発見できず、1938年になってようやく大量に発見することに成功したのです。1939年から第二次世界大戦が始まるため、このサウジでの石油発見は「大戦前夜の発見」だったのです。戦争の遂行に石油は欠かせません。

 

アメリカの石油会社が政府を動かして、ルーズベルト大統領に「サウジはアメリカの防衛にとって死活的に重要な国」と認定させたことで (1943年)、アメリカとサウジの軍事協力関係が始まり、サウジに惜しみなく軍事援助を与え続けることとなったのです。

このような状況の中、サウジは (イラクがイランに攻め入ったこともあり) 当初イランを刺激しないように振る舞っていました。けれどもホメイニは、サウド家の腐敗を激しく非難しただけでなく、湾岸在住のシーア派の人々に対して「革命」を起こすよう呼びかけたのです。

 

 

サウジ王家を悩ませる存在 ① イスラム原理主義

1979年に「アル・ハラム・モスク占拠事件」が起きます。これは、イスラム原理主義的な武装集団が「サウド家は異教徒の外国人に依存して近代化路線を突き進んでいる」と非難しメッカのアル・ハラム・モスクを占拠した事件です。この事件に呼応するかのように、石油の恩恵をあまり受けてこなかったシーア派の人たちによる暴動が発生し、王はシーア派住民に対する懐柔策として公共事業の拡大などを約束せざるをえなくなりました。

同時に、イスラム原理主義的な動きに対処するためにイスラム法 (シャリーア) の厳格な実施を目指し、違反者に対する取り締まりの強化に乗り出したのです。その後、頭痛の種であるイスラム原理主義集団は、アメリカとの良好な関係に疑問を投げかけるほどに成長してしまいます。

 

1990年にイラクがクウェートに攻め込み「第一次湾岸戦争」が始まると、アメリカは多国籍軍を編成しイラクを攻撃。この多国籍軍の基地としてサウジが選ばれたのです。サウジにはイスラム教の聖地メッカがあり、通常イスラム教徒以外の入国を認めていないことから、多国籍軍の駐留は全世界のイスラム教徒に衝撃を与えました。この駐留に激怒したのが、ウサマ・ビン・ラーディン率いるアルカイダを筆頭とするイスラム原理主義集団だったのです。

この駐屯への反発が、アメリカでの同時多発テロ (2001年9月11日) につながったと言われています。テロの首謀者が王室とも関係の深かったサウジの富豪ウサマであっただけでなく、実行犯20名のうち15名までがサウジ国籍の若者でした。この事件以降、欧米諸国では「選挙すら行なわれないサウジは民主国家とは呼べず、支援の対象とすべきではないのでは」「サウジは危険な同盟国だ」といった論調が見られるようになってきました。

 

 

サウジ王家を悩ませる存在 ② シーア派住民

サウジアラビア王家にとってもう一つの頭痛の種である「シーア派」に関しては、権利をある程度認めるという懐柔策を行っています。たとえば、シーア派の多い地域ではワッハーブ派に適応されるシャリーア (イスラム法) ではなくシーア派の基準で裁判を行ったり。。。それでも、サウジ王家はシーア派がイランとつながっているという危惧を拭いきれません。

また、欧米諸国からの「サウジはイスラム国などのイスラム過激派を支援している」という批判 (誤解?) にうまく対処していく必要もあります。そんなサウジでは、2015年に前国王が亡くなり、皇太子であったサルマンが新国王となりました。サウド家には王子だけで千人、王族すべてを含むと1万人がいると言われています。シーア派への配慮もさることながら、王族内での内紛にも気をつけなければならないのです。

 

 

2国間の対立に「神」は存在しない

このように、イランとサウジの対立は潜在的なものでとりたてて目新しいことではありません。サウジアラビアの王家にとって、イランの政権が民衆が王政を転覆させた「イラン革命」による革命政権である以上、その仲間と思われる人々 (シーア派) が国内に存在しているという恐怖は消えることはないでしょう。

両国の対立は、いわゆる「宗派対立」ではありません。宗派の違いが歴史的変遷の中で支配・被支配の関係と結びつき、宗派集団内の結束を高め、対立の構造を深めているのであって、対立そのものの中に「神」の存在はありません。おそらく、この対立の構造が当事者たちですら正確に把握できなくなっているほど複雑に絡まっているからこそ、事態の収拾がより困難になっていると言えるでしょう。