「彼の音楽を聴けば頭が良くなる」とも言われているオーストリアが生んだ天才音楽家モーツァルトはその短い生涯の中で数多くの名曲を生み出してきました。好き嫌いに関係なく、彼の音楽を一度も聴いたことがない人はいないはずです。
そこで今回は、故郷の家や宮殿といったモーツァルトと深い関わりのあるスポットをいくつか紹介したいと思います。
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1756年1月27日、古典派音楽の代表でありハイドン、ベートーベンと並んでウィーン古典派三大巨匠の1人であるモーツァルトはザルツブルクで誕生!
息子が天才であることを見抜いた父・レオポルトは幼少期から音楽教育を施し、5歳のときにはすでに作曲を行うほどの腕前だったようです。
親子でザルツブルク大司教の宮廷に仕える一方で、神童の演奏を披露するため何度もウィーン・パリ・ロンドン・イタリア・ドイツなどを旅行します。ちなみに6歳の時 (1762年) 、マリア・テレジアの前で演奏した際、マリー・アントワネット (7歳) に「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言ったとか言わなかったとか。
作家のゲーテは (7歳の) モーツァルトの演奏を聴き「彼のレベルは絵画のラファエロ、文学のシェイクスピアに並ぶ」と大絶賛したそうです。
1782年、26歳のモーツァルトは父の反対を押し切り、コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚。コンスタンツェはかつて彼が片思いしていた女性の妹でした。その後音楽家として大成功をおさめていくモーツァルトですが、晩年までの数年間は収入が減り、借金生活を強いられていたようです。
この背景には、モーツァルト自身の品行の悪さと浪費グセがあったと言われています。一方で、モーツァルトの才能を恐れた他の作曲家たちがモーツァルトの演奏会を妨害したという説もあります。
いずれにしても、晩年の彼は私財を投じてコンサートを開くも聴衆は不入りだったとか。それでも、作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなすモーツァルト。この頃はすでに体調を悪化させています。
死の3年前、彼は手紙で以下のようなことを語っています。
「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だった頃から、特別な才能の持ち主だと同じことを言われ続けています。目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。こうしたことは、長い時間をかけて練習すれば簡単にできるようになります。ぼくが幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。」
「長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人は他にいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです。」
こうして歴史にその名を残すこととなった偉人モーツァルト。コンスタンツェとの間には6人の子供をもうけましたが、残念ながら現在、モーツァルトの直系の子孫は残っていません。本当に残念です。
そんな彼の神童と呼ばれた幼き頃から不遇の最期を迎えるまでの (36年足らずの) 軌跡を辿ってみましょう。
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症状としては全身の浮腫と高熱があったようです。ウィーン市の公式記録では「急性栗粒疹熱」とされていますが、実際の死因は「リューマチ性炎症熱」であったと考えられています。また、医者が死の直前に行った治療が症状を悪化させたとも言われています。
1791年12月5日に亡くなったモーツァルトは死の数ヶ月前、「自分がアクア・トファーナ(美白薬だが毒としても有名な水)で毒殺されかけている」と妻に伝えていたそうです。実際、妻への手紙に「私を嫉妬する敵がポーク・カツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」ともらしていました。
ポーク・カツレツに入っていた寄生虫によって死んだ…という説まであり、今となっては何が真実なのかはよくわかりませんが、「モーツァルトを毒殺した」と噂されたサリエリという人物は重度の抑うつ症となり、自分の喉を切ろうとまでしました。結局サリエリは、死ぬまで悩まされてしまうのです。
モーツァルトの遺体はウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬されたそうですが、実際に埋葬された位置は不明とのことです。現在、国際モーツァルテウム財団 (ザルツブルク) にはモーツァルトのものとされる頭蓋骨が保管されているそうです 。実際はこれもまた謎。真実は闇の中です。
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1756年1月27日、モーツァルトはザルツブルク (オーストリア) にあるこの家で生まれました。写真の黄色い建物は、モーツァルト一家が1773年まで実際に住んでいたアパートで、現在は記念博物館として一般に公開されています。
ここにはモーツァルトが幼少期に使用していたバイオリンやピアノ、自筆の楽譜、家財道具といった当時の貴重な資料が展示されています。
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モーツァルトの頃のザルツブルクは「神聖ローマ帝国」の時代で、大司教が支配する宗教都市として栄えていました。この宮殿の大広間では連日華やかな演奏会が開かれていたといいます。
幼いモーツァルトは、バイオリニストの父レオポルトに音楽の才能を見出され、宮廷に使える演奏家としてここミラベル宮殿にも訪れています。ここからのホーエンザルツブルク城の眺めは本当に見事です。
ちなみにこの宮殿は17世紀初頭、ザルツブルク大司教が愛人 (聖職者なので正妻はもてない) のために建設されたとのこと。
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ユネスコの世界文化遺産に登録されているシェーンブルン宮殿は、およそ640年もの間オーストリアを支配した皇帝ハプスブルグ家の夏の離宮です。神童として注目を浴びていた当時6歳のモーツァルトは、女帝マリア・テレジアの御前演奏のためここへ招待されました。広大な庭と建物からハプスブルク家の栄光を感じることができます。
テレジア・イエローは、ヴェルサイユの煌びやかな感じとはまた違ってとても落ち着いています。幼い頃のモーツァルトとマリー・アントワネットがここで出会った…それを考えるだけで何だかシミジミとしてしまいますね。
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ヨーロッパ各地を演奏旅行で渡り歩いたモーツァルトですが、1781年、ザルツブルク最期の大司教であったコロレドとの決別により、ウィーンに移り住みます。自由の身となった25歳の彼は、この家でオペラの傑作『フィガロの結婚』をはじめ、多くの曲作りや楽譜の出版に励みました。
現在は記念館となっており、大きな経済力と名声を手にした彼の全盛期を垣間見ることができます。あのモーツァルトが実際にここで生活をして作曲活動を行なっていたかと思うと感無量ですね。
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ウィーンの中心地でひと際目を引くゴシック様式の大聖堂です。絢爛な礼拝堂や祭壇をはじめ、皇帝や大司教の墓碑、貴重な文化財などを擁する、オーストリアを代表する世界遺産です。
12世紀、オーストリア公ルドルフ4世の命によって建築が始まり、高さ約137ⅿの南塔が完成するまで約65年を費やしたとか。1782年にモーツァルトと妻コンスタンツェの結婚式が行われた場所としても知られています。
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晩年のモーツァルトは人気と収入が減り借金が増えるという不遇なものでした。華やかだった日々は次第に陰りを見せ始め、元々浪費癖のあった彼の生活は遂に破綻。そして1791年12月5日、病床に伏していたモーツァルトは最後の作品『レクイエム』を書きながら35歳の若さで息を引き取ります。
簡素な葬式がシュテファン大聖堂の外で行なわれた後、その遺体はウィーン郊外にあるこの共同墓地 (閑静な住宅地にある墓地) に家族や友人に見送られる事なく寂しく埋葬されたそうです。現在は、弔いの記念碑が立っています。
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ここは音楽の都ウィーンの象徴であり、モーツァルトが残した音楽への愛を現世に引き続ぐ名所です。かつては皇室専用だったブルク庭園ですが、現在は市民の憩いの場として親しまれています。緑豊かな園内に、モーツァルトの像と赤いベゴニアの花で描かれたト音記号が。。。
台座の裏側には、幼い日のモーツァルトが父や姉のナンネルと共にアンサンブルを楽しむ幸せな光景 (彫刻) が刻まれています。
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オーストリアではありませんが、モーツァルトの音楽家人生を支えた重要な場所のひとつがチェコの首都プラハにも存在します。モーツァルトはこの場でタクトを振り、いつも大盛況。プラハの人々はモーツァルトを温かく迎え入れ深く敬愛したといいます。
そんな由縁あるこの場所で、本格的なオペラを鑑賞してみてはいかがでしょうか。ちなみにプラハはウィーンから鉄道で4時間半ほどです。
音楽家としてヨーロッパ中を渡り歩いたモーツァルト。神童として名を知られるもパトロンに恵まれなかったモーツァルト。晩年は借金に苦しめられ、葬儀をきちんと行ってもらえず、遺体を共同墓地に放り込まれるという有様。。。
現在ウィーンにある「モーツァルトの墓」とされているところは、実は適当な骨を集めた場所なのだとか……。それでも、後世に生きる私たちは彼を敬愛し墓石に手を合わせます。
さて、言動はけっして上品とは言えなかったモーツァルトですが、「天才」であるとともに「努力」の人でもありました。そんなモーツァルトにとって「旅」は、(多くの文献にも記されているように) 人生を深める大事なライフワークだったようです。
そんな偉人に思いを馳せ、あなたもヨーロッパへと旅に出かけてみようではありませんか。