バッハを訪ねる旅



ヨハン・ゼバスティアン・バッハ (J・S・バッハ) は18世紀のドイツで活躍した有名なアーティストで、「音楽の父」と称されています。バロック音楽の重要な作曲家の1人でもあり、即興演奏が大の得意でした。

1685年3月31日、アイゼナハ (ドイツ) で8人兄弟の末子として生まれたバッハでしたが、9歳の時に母が、10歳の時に父が相次いで亡くなります。

 

バッハの出生地であるアイゼナハには世界遺産の「ヴァルトブルク城」があります

 

余談ではありますが、ベートーヴェン162cm、モーツァルト163cm、ショパン170cmだったのに対して、バッハはあの時代にして身長が180cmもあったと言われています。

 

 

18歳の時にワイマール (ドイツ) の宮廷楽団に就職したバッハは当時ヴァイオリンを担当していましたが、時に代役でオルガン演奏もこなしていました。

 

 

同年、アルンシュタット (ドイツ) の教会 (現在はバッハ教会と呼ばれています) に新しいオルガンが設置され、この奏者に選ばれたバッハは優れた演奏を披露し、演奏の他に聖歌隊の指導まで任されるようになります。

20歳になったバッハは4週間の休暇をとり、アルンシュタットから400kmの距離にあるリューベックまでを歩いて移動します。

 

 

リューベックでは68歳のブクステフーデにオルガンの演奏を学び、師匠と弟子として相思相愛。「俺の娘と結婚して後継者になってくれないか」と持ちかけられますが、20歳のバッハに対してその娘は30歳。

聖マリア教会のオルガニストとしての地位は若いバッハにとってとても魅力的でしたが、彼はこの申し出を丁重に断ります。

 

その後、22歳の時にミュールハウゼン (ドイツ) にある教会のオルガニストに採用されたバッハは、ひとつ年上のマリア・バルバラとドルンハイム (ドイツ) で結婚 (2人の間に生まれた7人の子供のうち2人はその後高名な音楽家になっています)。

23歳になって5年ぶりにワイマールに戻ってきたバッハは、今度は領主ヴィルヘルムの宮廷オルガニスト兼宮廷楽師となります (多くのオルガン曲はこの時期の作品です)。

 

 

ワイマール時代のバッハは、のちの悲劇的な結末を度外視すれば、おおむね平和で恵まれていました。「天の城」と呼ばれた美しい城内教会には改修されたばかりのオルガンがありましたし、初任給はミュールハウゼン時代の倍。

この町で6人の子宝に恵まれ、友人たちにも恵まれました。最新のイタリア音楽に接する機会もあり、その中でも特にヴィヴァルディの協奏曲はバッハの心を惹きつけました。

 

32歳の時、ワイマールを離れ他の町で働こうと考えたバッハはヴァイマール公の逆鱗に触れ (辞職を承諾されず) 、1ヶ月間投獄されたのちに解任されます。

その後のバッハはケーテン (ドイツ) に移り、宮廷楽長として活躍。恵まれた環境の中で数多くの名作を作曲します。

 

 

35歳になったバッハは、領主レオポルト侯に随行した旅行中に妻を急死で失います。バッハが帰郷したときは妻はもう埋葬された後だったのです。

ただ、バッハは翌年、宮廷歌手のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケ (バッハの16歳年下) と再婚します。彼女は有能な音楽家であったと見られており、夫の仕事を助け、バッハの作品とされていた曲のいくつかも、実は彼女の作曲でした。

 

 

有名な『アンナ・マクダレーナ・バッハのための音楽帳』は彼女のためにバッハが贈った楽譜帳で、バッハの家庭で演奏されたと思われる曲が折々に書き込まれています。

アンナ・マクダレーナとの間に生まれた13人の子どものうち、多くは幼いうちに世を去っています。しかし、末子のクリスティアンは音楽家として大成功し、イングランド王妃専属の音楽家となり、あのモーツァルトにも大きな影響を与えています。

 

 

まとめますと、ワイマール時代にバッハの感性は花開き、勉学の日々が結実するのです。おびただしい数の作品群がとめどなく溢れ出、オルガン作品の大半がこの時代に練り上げられたのです。

ケーテン時代も大変充実したものでした。

 

 
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

 

38歳になったバッハは、ライプツィヒ (ドイツ) の聖トーマス教会でカントル (キリスト教音楽の指導者) として働くことになります。

41歳の時にはザクセン (ドイツ) の宮廷作曲家に任命されます。

 

その後、64歳の時に脳卒中で倒れたバッハはさらに、以前より患っていた目の病気を悪化させ、視力をほとんど失ってしまいます。

その後、2度の手術に後遺症、薬品投与などの治療が高齢のバッハの体力を奪い、1750年7月28日、65歳でこの世を去ります。

 

 

生前のバッハは作曲家というよりもオルガンの演奏家・専門家として、また、国際的に活躍した息子たちの父親として知られる存在にすぎませんでした。

バッハの作品は、次世代の古典派からは古臭いものと見なされたこともあって、死後は急速に忘れ去られていったのです。

それでも、息子たちやモーツァルト、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ショパン、シューマン、リストといった音楽家たちによって確実に受け継がれていくこととなるのです。

 

聖トーマス教会のバッハ像

 

 

バッハゆかりの場所

 

①  バッハ誕生の地   (アイゼナハ)

《続きを読む》

 

 


②  聖ミカエル教会  (リューネブルク)

《続きを読む》

 

 


③  聖マリア教会    (リューベック)

《続きを読む》

 

 


④  ワイマール時代   (ワイマール)

「ゲーテとシラーの像」が立つドイツ国民劇場は、ゲーテの代表作「ファウスト」が初演された場所であり、1919年にワイマール憲法が採択された場所でもあります
《続きを読む》

 

 


⑤  短くも幸福だったケーテン時代    (ケーテン)

ケーテンは人口3万人ほどのほどよい町です ♡
《続きを読む》

 

 


⑥  バッハ博物館   (ライプツィヒ)

《続きを読む》

 

 


⑦  聖トーマス教会   (ライプツィヒ)

《続きを読む》

 

 


⑧  カトリック宮廷教会   (ドレスデン)

カトリック旧宮廷教会。隣にはドレスデン城があります
《続きを読む》

 

 

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

 

バッハと言えば、学校の音楽室に飾られたあのいかめしい顔にかつらをかぶった肖像画を思い浮かべる方も多いことでしょう。

終生、中部 & 北部ドイツ地方から外へ出ることはなかったバッハですが、演奏や新しいオルガンの鑑定などでドイツ各地を旅することはよくありました。
 

特に、バッハと関係のある北ドイツの町は、中部や旧東ドイツの町とはまた違った雰囲気でとてもきれいです。レンガの街並みが青空に映え、木組みの家が多い町もあってとっても素敵 ☆

ドイツと言えばロマンティック街道など「南」が人気なのですが、「北」もどうしてどうして。なかなか魅力的なエリアですよ ♡

 
ぜひ一度、足を運んでみてくださいね。