知っておくべき「パレスチナ自治区」問題の基本情報



破壊された家の前で呆然と立ち尽くす人々。大切な家族を殺した兵士に素手で立ち向かう少年…。

パレスチナにあるエルサレムという都市は「キリスト教」「イスラム教」「ユダヤ教」の聖地として世界中に知られており、長い間宗教の異なる人々が共存していました。そんなパレスチナで大きな紛争が起こっているのはたかだかこの百年間にすぎません。本当に難しく、解決できない問題なのでしょうか?

 

パレスチナ問題

そもそもなぜ「パレスチナ自治政府」というものができたのでしょうか?理由は簡単です。イスラム教徒とユダヤ教徒が土地を奪い合い殺しあっているからです。厳密に言えば、片方が一方的に殺され続けているだけなのですが、この問題はそう単純なものではなく意外と根深いわけです。だからこそ、一向に解決する気配がないわけです。

「ガザ地区」は周囲をイスラエル軍に完全に包囲され、人や物の出入りが厳しく制限されています。人口の約7割は難民で、8つの難民キャンプがあります。人々は国連や支援団体からの援助物資などで命をつないできました。2008年以降は、ほぼ2年おきにイスラエル軍の激しい爆撃を受け、多くの市民が犠牲になっています。

「ヨルダン川西岸地区」の60%以上の土地はイスラエル軍の支配下にあり、各地にイスラエル入植地が作られています。入植地との境界には高さ8mに及ぶ巨大な壁が建設され、町や村が分断されています。農地の破壊や土地の没収なども頻繁に起こっており、投石に対する発砲や逮捕などで緊張した状態が続いています。

 

 

パレスチナの歴史的背景

「パレスチナ」を語るには、まず歴史的背景を理解することが大事になってきます。そもそもの経緯は約2,000年前にまで遡るのです。

現在のイスラエルがある地中海東岸はユダヤ人にとって旧約聖書で神が与えた「約束の地」と書かれている土地。それを根拠に (ヨーロッパを中心に迫害を受けていた) ユダヤ人たちは王国を築いて住んでいたのですが、ローマ帝国が領土拡大のため攻め込んできてユダヤ人たちを蹴散らしたのです。

 

黄緑部分が「パレスチナ」

 

その後、ローマ帝国も衰退し、今度はこの場所にアラブ人が住むようになって「パレスチナ」と呼ばれるようになっていきます。しかしながらこのアラブ人も、オスマントルコ帝国に占領される状態が20世紀の初め頃まで続くわけです。

そして、ちょうどその頃世界中に散っていたユダヤ人たちがヨーロッパなどで迫害を受け、パレスチナに戻り始めるのです。その頃はまだ両者争うことなく割と平和に暮らしていたのですが、第一次世界大戦中、イギリスが「アラブ指導者にはアラブ独立国家の樹立を」「ユダヤ人指導者にはユダヤ民族の地を」作ると約束してしまったのです。この矛盾した約束こそが現在の混乱の元となっているわけです。

 

 

イスラエルとパレスチナの対立

その後、米英主導で「パレスチナを分断し」「ユダヤ人とアラブ人の国を作る」ことが国連総会に提案され、一方的な決議で分断が決定してしまうのです。これがユダヤ人国家「イスラエル」誕生の経緯であり、これに対してパレスチナ人と周辺のアラブ諸国が反発。第一次中東戦争に発展していきます。以降断続的に紛争が続き現在に至っています。

第一次中東戦争でエジプトが攻め込んだのが「ガザ地区」、ヨルダンが攻め込んだのが「ヨルダン川西岸地区」で、この2つの地域が現在のパレスチナ自治区と呼ばれています。その後、アメリカの仲介によって両者の間で「暫定自治に関する合意」がなされますが、イスラエル側はパレスチナ国家を認める気は一切ありません。一方で、独立国家という希望を持ち続けているパレスチナ人たちは裏切られた結果となっており、それがゆえに衝突 & 紛争が今日まで続いているのです。

 

 

パレスチナ難民

イスラエル建国 (1948年) に伴い、70万人以上のパレスチナ人が故郷と家を失いました。その結果、「ヨルダン川西岸地区」「ガザ地区」「ヨルダンやレバノンなどの周辺諸国」に逃れます。以来、「故郷への帰還」を切望しながら70年におよぶ年月を難民として過ごしているのです。今や三世代、四世代となったパレスチナ難民たちは、世界中に500万人ほどいる(世界で最も大きな難民グループ) と言われています 。

彼らの多くは、半世紀以上前に建設され老朽化した難民キャンプで「無国籍」状態に置かれて暮らしています。国によって異なりますが、市民権を得られなかったり就労制限を課されたりするなど、社会的権利を持てず、第三国への移動もできない人々も多くいます。教育や医療などのサービスはUNRWA (国連パレスチナ難民救済事業機関) が提供していますが、UNHCR (国連難民高等弁務官事務所) よりも支援内容が少ないのが現実です。また、UNRWAは「難民保護」の権限を持っていないため、パレスチナ難民の権利はしばしば侵害されています。

 

 

パレスチナ自治が始まるも…

1987年、パレスチナ人の不満が一挙に爆発し、ガザ地区の難民キャンプから「インティファーダ」と呼ばれる反占領闘争が広がります。「デモ」「ストライキ」「子どもの投石」「イスラエル製品不買などの抵抗運動」が世界中に知れわたり、イスラエル国内でも占領の是非に関する議論が起こります。

こうした状況を受けて1993年、ノルウェーの仲介によってイスラエルのラビン首相と PLO (パレスチナ解放機構) のアラファト議長の間で「西岸及びガザで5年間のパレスチナ暫定自治を開始する」という暫定合意条約 (オスロ合意) がアメリカで調印されます。しかしながら「難民」や「国境」の問題は先送りにされます。

 

こうして1994年以降、ガザとヨルダン川西岸地区でパレスチナ自治が開始され、外国の援助による難民キャンプのインフラ整備なども徐々に進んでいきます。しかしながら、細分化された「自治区」の多くは依然としてイスラエル軍の占領下にありました。さらに、自治政府の腐敗や非効率性などもあって、パレスチナ経済の発展は阻害されてしまうのです。

その後、一向に変わらない状況への強い不満があって、武装組織によるイスラエルへの攻撃が発生。これに対してイスラエル側は、激しい報復措置とさらなる自治区封鎖を行います。多くのパレスチナ人は刑務所に収容され、入植地の建設がさらに活発になっていくのです。

 

 

和平の破綻とイスラエルの大侵攻

2000年、PLOのアラファト議長とイスラエルのバラク首相による「キャンプデービット会議」は不調に終わり、パレスチナ人の間には失望感が広がります。同年、イスラエル右派のアリエル・シャロン元国防相が武装集団を引き連れてエルサレムのイスラム教聖地を強行訪問し、パレスチナ人の怒りが再燃 (「第二次インティファーダ」)。イスラエル軍は一般市民を攻撃し、パレスチナ側では自爆攻撃が相次ぎました。

イスラエルでは2001年にシャロン政権が誕生し、2002年にはパレスチナ自治区への武力攻撃がかつてない規模で開始されます。2000~2005年の間の衝突による死者は、パレスチナ側3,339人(うち子ども660人)、イスラエル側1,020 人(うち子ども117人)と発表されています。

 

2005年、ガザ地区からイスラエル軍・入植者が撤退。しかしながら同地区は依然イスラエル軍に包囲されており、巨大な監獄状態となっています。2007年の選挙によってガザ地区にはこれまでの「PLO」ではなく「イスラム政党ハマス主体の政府」ができたため、封鎖は更に強化されました。

2008年と2012年にはイスラエルによる大規模な軍事侵攻が行われ、多数の一般市民が犠牲になりました。人や物資の移動も制限され、ガザ地区では深刻な物資不足や生活環境の悪化、経済・社会活動の停滞が起きています。

ヨルダン川西岸地域では、2002年から巨大な「隔離壁」(西岸とイスラエルを隔てるコンクリートや鉄条網の壁) 建設が開始されました。このため、パレスチナ自治区は飛び地状態になっています。国際司法裁判所は「この隔離壁がパレスチナの自治を阻害し生活圏を分断するものであり国際違反である」と裁定を下しますが、壁の建設は続行。西岸は取り囲まれ、人々の移動は制限されています。

 

 

かなわぬ平和への願い

国際社会では2012年、パレスチナの「国連へのオブザーバー加盟」が圧倒的多数で承認され、パレスチナは「国家」として認められました。その結果、2014年は国連パレスチナ連帯年と位置づけられたのですが、残念なことにパレスチナの状況はあまり改善されていません。パレスチナ人の「独立」「平和」への強い願いは叶えられていないのです。


2014年夏には再びイスラエル軍がガザを攻撃し、2,200人以上の人々が犠牲になりました。イスラエル国内ではパレスチナとの和平交渉を望まない人が増え、排外的な政治が強まっています。国際社会はこうした状況に有効な手を打てておらず、犠牲は増える一方です。イスラエルとパレスチナという二つの独立国家が隣り合わせで共存する…ということは不可能なことなのでしょうか?